馬毛島の開拓者

 新たな夢を膨らませ入植した開拓団たち、しかしそこに待っていたのは……。

 1951年(昭和26年)から、馬毛島に農業開拓団39戸の入植が始まった。昭和34年には113世帯、人口528名となり、集落を形成するまでになった。しかし、これをピークに離島者が急速に続出。昭和55年4月、ついに集落は崩壊し、馬毛島はまた無人島にもどってしまった。

 19年に渡る馬毛島での生活。現在、種子島に移り住んでいる方、4名に、当時の暮らし振り、思い出を話していただきました。


 「私が馬毛島に渡ったのは小学校に入る頃。港に足を下ろして、まず、“寒いところやなー”と思った。準備ができるまで、とても寒くて、焚き火をしていた記憶があります」
 と、親子5人で渡って思い出を語ってくれたA子さん。昭和26年の第1陣での入植者だった。それから、2年後の昭和28年、B男さんは中学校を卒業してからの入植者であった。すでに、奄美大島から種子島にやってきた父親が、2年前の第1次開拓にはいっていた。1戸あたり1町8反(約1.8ヘクタール)の割り当てで、サツマイモや野米(陸稲)、野菜などをつくる自給自足の生活がスタートした。A子さんは当時の開拓状況を涙を流しながら、語ってもらった。
 「与えられた畑の前には岩や石がゴロゴロしていた。家族総動員でそれを退かして、畑をたやがすのだが、岩を退かすと“マムシ”が出てくる。多いときで1日に7匹のマムシと遭遇したこともある」
 と。C男さんも
 「本当に馬毛島はマムシの多い島だった。1年中雨靴なしでは歩けないほど、ちょっと草むらに入るとマムシがおったなー。今でも注意せんとなー」
 当時は、畑を耕作するにしても、クワ一つで土と格闘していた。田んぼにしても、川が少ししかないので、ポンプで水を汲み上げて田を作っていた。しかし、直ぐに乾いて、畑になってしまう。馬毛島の地質は、農業には向いていないのか?そんな荒地にも、なんとか小さなサツマイモが根づき、収穫ができるようになった。しかし、大きな問題が発生する。“鹿”だ!夜中に現れ、前足で土を掘って、根こそぎ荒らしてしまう。A子さんは、小学生でありながら徹夜で鹿の見張り番をしたという。
 「インクの入っていた瓶にロウソクを入れて、ランプがわりにして辺りを見張っていました。夜露防ぐため程のビニール小屋の中から一晩中覗いていました。とても寂しくて、寒かった」
 当時、大人たちは昼間の開拓労働、子供たちは夜の鹿の見張り番が役割だったようだ。

 しかし、この後、1958年(昭和33年)、入植7年後にもっと大きな「自然」が開拓者の生活を脅かしてしまった。サツマイモを食い荒らす害虫“アリモドキゾウ虫”が大発生してしまったのだ。これで馬毛島のサツマイモの栽培が禁止となってしまう。C子さんは当時を思い出し、
 「はっきりとは覚えていないが、食料がなくなり、母親から畑のイモをとってこいと言われ、土を掘ってみると、シラムシのような白く光った虫がサツマイモに群がり、穴だらけにしていた」
 この当時が入植者のピーク113世帯、人口528名の頃で、これから本格的な農業生産にとりかかる矢先の出来事だった。2年後にはサトウキビが代替作物として作付けされ、製糖工場もできるが主作物にはなれなかった。

 子供の頃の思い出として、当時どんな場所で、どんなことをしていたのか聞いた。
 「遠くまで出歩いて、遊びまわることはなかったし、出来なかった。ほとんどが、家のまわりか、学校の校庭で走り回っていた。馬毛島はソテツが多かったので、ソテツの葉で丘から滑る草スキーしたり、バッタを追いかけたりと自然と同化した遊びだったと思う」
 と語り、つなげた。
 「畑の手伝いで辛いこともあったが、今になって兄弟たちと話するのは、電球ひとつでテレビもなかったが、家族同士助け合い、近所の方とも協力しあい、生きている実感とか、家族とかの絆などが子供なりに判って満足していた。本当の人間らしさとか、家族を発見できたことを思い出します」
 といい顔で笑いながら、涙を流した。

 当時の食料事情は自給自足。お店も何店かあったがほとんどが、物々交換であった。種子島にも2〜3ヶ月に一度渡るときも、魚を持っていき、お米と交換するようなことをしていたようだ。

 馬毛島のいい場所、自然や遺跡。これだけは残しておくべき場所はないかと聞いた。が、皆さんの口は鈍い。「島の周りにある、各集落の停泊する港」位だった。恐らく、馬毛島に生活していた人にとって、馬毛島の自然はそんなやさしく、綺麗なものではないのだろう。島を離れたのもその荒々しい自然が要因だったのだから……。

 最後に、馬毛島が今、中間貯蔵施設だとか、採石、産廃だとか騒がれているが、何か馬毛島に関して、してほしいことがありますかと聞いた。
 「もう遅かろー。県も認可したとやから。できればもう少し早く馬毛島を見てくれればよかったばっちぇなー」
 「今、いろんなことをやって仮に成功しても、又なにかが始まる。歴史をみてもそんな島じゃ。 種子島の1部として、種子島に住んでいる人らが動いてそれを継続しないとだめ。これからもずーっと見える島じゃから皆で監視するとかせんと。反対ばっかりじゃなく、具体的なことを県にも市にも、所有者にも言わんばなー」

 以上


 取材を終えて感じたことは、皆さんが口にこそ出さなかったが、辛い19年間だったと思われる。その中でも馬毛島の自然というのは、人間を寄せ付けない程,恐ろしくて、大きなものであり、貴重なものだということを実感した。

 今後の活動も、自然というのが大きなツールになってくるが、“自然”だけでなく、“人”を絡ませなければならないと思う。今後は“機械”による開拓でなく、お金もうけでもない、“人”による、家族、教育、体験などの“楽しいの第2次の開拓”をすべきだと感じた。継続して。

文責:橋野 一稔

馬毛島の自然を守る会・屋久島