715年~ |
日本書紀に馬毛鹿の皮100張を年貢に納めたと記載 |
1201年 |
種子島氏の元祖、平
信基が種子島の領主になっており、馬毛島は正式に種子島家の属領となる。 |
1763年 |
種子島家は馬毛島の漁業を池田、洲之崎、塰泊の3浦に許可する。 |
1822年 |
島津家に鹿4頭を献上する。 |
──明治── |
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1868年 |
明治維新により政府に属す。 |
1871年 |
政府は武田竜蔵他3名に馬毛島を賃下げし、短角牛の飼育が始まる。 |
1880年 |
政府の緬羊飼育牧場となる。 |
1890年 |
牧舎経営不振となり、鮫島甚七の個人所有となる。 |
──大正── |
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1913年 |
東京の三浦泰輔に所有権移転、緬羊飼育を行う。羊毛を陸軍に納める。 |
1924年 |
馬毛島牧場は神戸の川西清兵衛に移り、緬羊595頭となる。 |
──昭和── |
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1941年 |
海軍が防空監視所を設置、経営不振もあってこの際、馬毛島における緬羊飼育を取り止める。羊は種子島に移された。 |
1945年 |
農地解放に伴い、川西氏は全島747万平方メートルのうち約480万平方メートルを政府に移管し、残りは川西氏の所有となるが、全島は全くの無人化した。 |
1951年 |
当時の食料増産と、復員者、海外引揚者と種子島の農家の次男、三男と共に、4回 に分て移住開始。農業開拓団39戸の農業生産は甘藷を基幹作物に、陸稲と豚であった。 |
1952年 |
15戸移住 |
1953年 |
榕城小学校分校が発足。 |
1954年 |
28戸移住。 |
1955年(S30年) |
15戸移住。榕城中学校馬毛分校が開校。国設特別鳥獣保護区に指定される('75年解除)。 |
1958年(S33年) |
害虫アリモドキソウ虫が大発生し甘藷の作付けが禁止される。これが要因で、これを飼料として飼育されていた豚が激減する。 |
1959年(S34年) |
数度の入植により、113世帯、人口528名となり集落を形成するまでとなった。人口のピークとなる。 |
1961年(S36年) |
製糖工場が誘致される。しかし、このころから農外収入を出稼ぎに求める農家が多くなってきた。農業に不適合な地質に加えて、害虫、鹿の農作物への被害も大きく影響、農業の不振が続いた。 |
1963年(S38年) |
市営貨客船「馬毛島丸」の定期航路が種子島と開設された。しかし、この馬毛島丸は、18トン、60馬力、定員25人、載貨重量3トンの小型船のため、住民が十分に活用することはなかった。 |
1965年(S40年) |
人口の過疎化が進行し、農地の荒廃、原野化が目立つようになってきた。ついに、製糖工場も閉鎖された。99世帯、人口382人。 |
1966年(S41年) |
種子島畜産組合が事業を開始。それに関連して島民の農業生産も食肉用牛生産に変わってきた。 |
1968年(S43年) |
出稼ぎの急増、離農がさらに激しくなる。漁業、民宿度が高まった。 |
1970年(S45年) |
78世帯、人口284人 |
1973年(S48年) |
種子島畜産組合事業停止。馬毛島開発株式会社が島の開拓を企画、買収を開始する。58世帯、人口190人 |
1977年(S52年) |
島の南部で「椎ノ木遺跡」と呼ばれる弥生期のものと見られる人骨埋葬後が石斧や土器と一緒に発見された。 |
1980年(S55年) |
4月21日付けで馬毛島は無人島となる。 |
1995年(S56年) |
大火災が発生。 |
1986年(S61年) |
トノサマバッタの大発生。県設鳥獣保護区となる。 |
1987年(S62年) |
「マゲシカ生態調査会」がマゲシカの調査を始める。 |
──平成── |
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1989年(H1年) |
鹿児島市の子供たちが野生の大自然を体験する「無人島体験キャンプ」が開始される。 |
1995年(H7年) |
住友銀行系の太平洋クラブから、立石産業に経営権が委譲された。 |
1997年(H9年) |
県設鳥獣保護区に再指定。但し、異例の1年更新となる。 |
1998年(H10年) |
休校であった馬毛島小・中学校が廃校となる。 |